| B-BOYに憧れて |
| HIP HOPとの出会い |
| 私がHIP HOPと始めてであったのが1994年だった。 その当時まだ学生だった私は友人に誘われ都内某クラブで行われたイベントに行ったのがクラブに行き始めるきっかけになった。 その後、都内クラブに毎週のように通い気に入る自分の居場所を探し始めたがしかし、行った場所がたまたま悪かったのかクラブはナンパばかりで男女の出会いを求める場所でしかなかった。音楽も多種多様なジャンルが流れ自分の気に入った音楽なら楽しいが気に入らないジャンルの音楽が流れるとただ騒がしいだけに思えた。その後も転々と場所を代え気に入る店を探したがなかなか都内では見つからなかった。その日もいつものように都内へ出かけたがあまりぱっとしなかったこともあり朝までは苦痛に思えた為、その日は終電で横浜に帰ってきた。しかしせっかくの週末終電で帰宅してはもったいないと感じ始めて横浜のクラブへと足を運んだ。その日を期に人生が大きく変わったともいえるぐらいの痺れが体を貫き感動を受けた。まさにそのクラブは異国、日本とは思えないくらいの空間だった。そのクラブの名称は“横浜サーカス”音楽もブラックミュージック以外は流さずお客の8割がブラザー(黒人)だった。 その為、都内に比べナンパが少なく常連のお客がほとんどだった。しかも都内ではなかなか見ることの出来なかったダンサーも多く訪れており今までの世界とは大きく違っていた。その時の音や光そしてなんともいえない空気今までに味わったことのない感じすべてが新鮮に思えた。その瞬間からこの場を自分の居場所にしようと決めた。その後、たまたまイベントの企画があり主催を任されてしまった為、迷うことなくこの“横浜サーカス”をイベント会場に選んだ。その時たまたまプランナー・司会もやっていた事もありサーカスの専務にスカウトされ黒服として翌週から働くことになった。 |
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| 横浜サーカスで働く | |
| まだ学生だった私は週末(土・日・祝)のみサーカスでお世話になった。当時は金曜日の夜はブラザーディーと呼ばれ9割以上のお客さんがブラザー(黒人)だった。残りの1割はプロのダンサーが遊びに来ていた。特にインディペンデンス号が来航したときはほとんどがブラザーのお客さんになっていた。土曜日の夜はブラザーが6〜7割で残りは日本人のお客さんだった。この週末は満員電車を思わせるぐらいの混みかたでまともに歩けるスペースなどほとんど残されてなかった。しかも当時はフリードリンク・フリーフードだった為、その人ごみの中を空いたグラスを持ち歩かなくてはいけなかった。3本の指でトレーを持ちそのトレーの上にまたトレーをのせさらにグラスの上にまたグラスをのせその数段重なったトレーを頭の上へと持ち上げ運ばなくてはいけなかった。飲み放題だった為、飲まずに残った酒のグラスがかなり多く普通のウエイターとは比べものにならないくらいの大変さでしかも水商売ということもあり上下関係がかなり厳しかった。 後から入った者は先輩がいくら年下でも敬語は当たり前で仕事も後から入った人が一番いやできつい仕事をしなくてはいけなかった。 当時は私が入ったときはスタッフも多く本来は募集もかけていないところに入った為、通常より長い下っ端生活が続いた。最後の清掃もトイレに重点をおいていた為、一番の下っ端がトイレ掃除を行っていた。何度も何度もクリーナーを使用し綺麗にした後、最後先輩が確認の為にトイレに来る。その時、少しでも汚れていた際にはこの便器は舐めれるのかと追求してくる。蹴られたりすることも当たり前でこの下っ端から開放される前に辞めていく人はかなり多かった。そのうち先輩が卒業していき新人が入ってくると下っ端から開放される。私の場合はたまたま人が多く普通より下っ端生活が長かったが1人の先輩が卒業するとそれを期に卒業していく先輩が多く続いた気付いた頃にはカウンターでお酒を作らせてもらえる事の出来る位置になっていた。カウンターに入る事が出来ると周りの自分に対する対応が変わってくる。古いOBも古株の常連さんも皆優しく接してくれ名前も覚えてくれる。このカウンターに入れるという事はやっとスタッフとして認めてもらったことになる。ここまでくればかなり居心地はかなりいい。これ以上の人になるとお客さんと酒を飲み遊んでるのが仕事になってくる。 当然、他のスタッフも酒を飲みながら仕事は出来るが暇な時間になるまでは大忙し、しかし暇になってしまえば遊んでいても怒られない。 他のクラブで働いた事がなく他所の事はわからないがこのお店の変わってると思ったことは一番えらいのは昔のOBスタッフその次に古株の常連さんその次は最近やめたOB、そして現役のスタッフ最後にお客さんという具合にお客をお客と扱っていないところだ。例えば先ほど述べたトレーの話でも頭の上まで高く上げたトレーをひっくり返しても自分にかからなければお客の方に投げてもいいよといったアドバイスもあった。なぜ投げるかというと自分のスーツが汚れないようにするためだ。万が一お客にお酒がかかってもお客は怒らない。それぐらい店員の方が偉いお客さんとの位置関係にあった。もし揉め事があってもブラザーのセキュリティーが数人控えてるから店員はよけい威張る事ができた。時に客同士の喧嘩があるとこのセキュリティーが止めに入る。しかしブラザー同士の喧嘩は本当にすさまじい。トイレで喧嘩が始まったときには手を洗う洗面器具が割れて落っこちていた時もあったぐらいだ。色々な事がお店であったが時にお店が終了してからセキュリティーブラザー主催の海やベースキャンプでのBBQ(バーベキュー)なども行われた。当時は朝の7時に閉店しそこから1時間ほど清掃に入りその後BBQ会場に向った。ブラザーが格安でベース内で酒や食材等の仕入れを行っていた為、すべてがアメリカンサイズだった。DJブースを海辺に持ち込み音楽を流し服のまま海へと放り込まれる。当然着替えなど持って行っていない為、濡れたまま電車に乗り帰宅しなくてはいけなかった。あれから10数年、最近ではこの横浜サーカスも当時の賑わいを失い他店にお客を取られてしまっている。当時あんなにいたブラザーもどこへ行ってしまったのか。最近では当時のスタッフがたまにOB会と称し横浜にあるロゴス(旧名:ハーデス)でパーティーを行っている。 |
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| ダンサー・DJとの出会い |
| 当時はダンサーに憧れた。HIP HOPしか知らなかった私がBreakDanceと出合ったのもこのお店だった。プロのダンサーも数多く訪れており皆親切に指導してくれた。当時はフロアマスターズが当店の専属ダンサーだったこともあり無料でプロのレッスンを受ける事が出来た。これも店員の特権だった。その他、浜ラジのDJもいたこともありDJに憧れてサーカスに訪れる人も多かった。専属DJの中にはあの有名なDJ IKEなどもいた。お客には海外のビックアーティストも数多く訪れていた。このような環境下で多くの人に囲まれ私の10代の生活が過ぎていった。このとき感じたDJは私には難しいと。そんな事もありそのとき一番輝いて見えたブレイクダンスを習おうと決めた。たまたま学生時代は器械体操を行っていた為、ニューヨークスタイル(床などで回るダンス)は思ったよりすぐに習得できた。そんな事もありLAスタイル(立って踊るダンス)にかなりの魅力を感じた。しかも奥が深いことも覚えていくうちに段々とわかってきた。しかし、環境がよかった周囲にはたくさんのダンサーがいたそして皆親切に教えてくれる。ダンスは当たり前で身のこなしやつなぎ方、名称など様々だった。だがこれだけ多くのダンサーやDJがいたのになかなかグラフィティをしている人に出会うことは出来なかった。 |
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| ステージで踊る |
| たまたま学生時代の文化祭で皆暇を持て余しており学校中からパフォーマンスが出来る人はいないかということで私と数人が呼ばれた。その中にその後、一緒にステージで踊る事になる友人の姿があった。彼はBMXの全日本チャンピオンでアメリカでも2位の成績を上げている人物だった。彼にはスポンサーも数多く付いており日本で彼にしか出来ない技も数多く持っていた。しかし話を聞いてみると独学で学んだという事だった。始めて見た金の自転車に乗り華麗なテクニック美学とも思える技のつなぎ方、しかも失敗する事がほとんどない。この日が彼との出会いの場となった。すぐに意気投合し残された学生時代は彼とほとんどすごすことになった。その後はステージを共にし彼がBMXでパフォーマンスを行いその後、私がブレイクダンスを踊る。そしてまた彼がステージに入るといった具合に交代でステージを盛り上げた。しかし、それだけすばらしい功績を残した彼だったがBMX一本で食べていくのは難しいと感じ卒業と共にBMXを引退した。 そして私もこの日を境に踊る事を辞めた。 |
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| 生きがいを求めて |
| ステージで踊る事に少し重荷に感じ始めていた私が他に趣味として楽しめる事を探し始めていた。ただせっかくこの世界にしばらくいたのだからまったく違う事を始めるのも困難に感じた。だからと言ってDJは私には難しく思えた。そこで以前に海外アーティスト来日によるダンスイベントで目にしたグラフィティを思い出した。私の友人にグラフィティを行っているものは数人しかいなかったがベースになる技法のみ教えてもらいその後は独学でグラフィティを学び始めた。もともと絵がうまかったわけでもない。ただ当時ブレイクダンスのLAスタイルと出合ったときと同様に時間を忘れ吸い込まれる感覚をグラフィティに感じたからだ。しかし当時のように指導してくれる人に恵まれてはいない。そこでアーティストの感覚を磨く為に海外で得ることにした。始めにサーカスに行ったときの感動を今も味わえるのは海外にしかないと思っている。あの成田までの道のりいつもの電車。何ともたまらないそして空港での待機・離陸。すべてがすばらしい。でも一番の興奮感動といえば他国のターミナルに降り立ったときだ。ゲートをくぐり異国の空気に触れ合う。何度経験しても慣れるという事はない。そして現地のブラックな世界へと足を運んでいく。 |
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| 言葉の壁 |
| 海外といってもどこへ行き何を見ればいいのかしかも大きな壁言葉の違いもある。サーカスでは自らの学習意欲がなければまったくと言っていいほど英語の必要性がなかった。そこで手始めに英語圏でしかも格安で近郊のグアムに観光で行った。今思えば海外素人の私にはちょうど良かったのかもしれない。以前から英語には憧れてはいたがこの期を境に英語の必要性を感じ始め自己学習する事にした。しかし、どのように学習すればいいのかわからない、英語を話せる友達もいない、駅前留学というのにも行ってみたが3日間体験であえなくリタイヤ。こんな事では一生英語が話せない。しかし、英語に対する憧れだけは大きくなっていった。こんなことではいつまで経っても英語を話せるようにならない。たまたまNHKテレビを見ていたら“とっさのひとこと英会話”という番組がやっていた。短い時間でとても実用的な内容だった。めんどくさがり屋の私でも1フレーズなら覚えていく事が出来ると思い始めた。なんと学習していくうちにパターンというか法則のようなものが少しずつ見えてきたように思えた。当時はかなり海外に憧れがあり初の海外グアムでの体験がすばらしかった為、2〜3ヶ月毎に1回のペースで海外に行くようになっていた。英語のフレーズを何個か覚え海外で実践してみる。通じる事が出来たらそれが自信となりまた学習意欲が湧いた。そのグアム旅行の次に訪れた国がアメリカロサンゼルスだった。この町は今でも1番の憧れの国になっている。その後、各国(26カ国)を訪れブラックな世界だけでなく様々な文化を見て周った。 |
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| Graffitiがステージに |
| 当時、独自でグラフィティを学び色々な表現をしてみたが描いていくうちに少しでもこの作品を多くの人に見てもらいたいという欲求感がだんだんと生まれていった。そんな時たまたま私の友人で以前サーカスの古株の常連さんでもあったロゴス(旧:ハーデス)の店長さんから近々に横浜ベイホールを貸しきってハーデス2周年パーティを行うと内容イベント3日前の話だった。当然、イベントなどで描いた事もないしグラフィティを始めて間もない、良ければ飾ってもらえるが悪ければ飾る事は出来ないよという事でチャンスだけが舞い込んだ。当然、使ってもらえてもギャラなどは発生しない。しかし、その後、活動していく大きな力になると感じた。時間がないことは承知していたがたまたまこの時は話をもらった瞬間にイメージがすぐに舞い降りた。材料を買い込みデザインに入る、完成したのはイベント当日だった。すぐにイベント会場まで友人に頼み運んでもらった。当日、店長さんも忙しくゆっくり話す事が出来なかった為、イベント会場に訪れた私はなかなか落ち着く事が出来ない会場内に入ったが私の作品がなかなか見当たらない入口にはなく壁という壁を見て回ったがどこにもない、まだまだ勉強が必要だなと思いステージ向った。自分の目を疑った、そのとき見た光景は約10年経った今でも忘れることはない。なんとDJブースの前に私の作品があったのだ。この瞬間一気それまでにもやもやしていた気持ちが無くなった。横浜ベイホールの構造上ステージはお客さんと鉄策で区切られている。ステージではダンサーやラッパーなどがイベントを盛り上げる度に常に私の作品が多くの人に見てもらえるのだ。イベントも少し落ち着いた頃にお礼の挨拶に店長さんのところに行った。本当は作品が良かったからステージの上から吊るしたかったんだと言われた。しかしそこまでの時間も安全面も確立できていなかった為、DJブースの前に置いたという事を言われた。今でもこの時の感動は忘れない、以前にステージで踊る前のドキドキ感の様なものはないがそれとはまた違った達成感・満足感のようなものがあるように感じる。 |
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| 作品を持って営業に |
| 当時の作品とイベントでの写真を持って営業へ行く事にした。当然、どこにどのように営業するかなんて全然わからなかった。手助けしてくれる人もいなければアドバイスしてくれる人もいない。その後もハーデスの店舗へ描いては飾らしてもらったりしていたら、少しずつ声をかけてくれる人が現れた。簡単に言うときっかけを与えてくれる人が出てきたのだ。たまたまHIP HOP(グラフィティ含む)ブームも来ていたのからかも知れないそこへ作品を持って営業に行く。当時はイベントのスポンサーもかなりお金をかけている時期があった。必要としているところが多かった為、営業をするもの比較的楽だった。私もイベントや店舗に呼ばれ描かしてもらうことがあったがどこも予算があり、しかもあちこちで段々と大きなイベントが行われスポンサーも付きマスコミも取り上げていた。作品も大きな物を描くようになり芸能人を司会として招いたイベントやTVなどでもHIP HOP系の番組は多く見受けられた。あの当時はどこもかしこもクラブ・イベント一色になり毎週各店舗でお祭り騒ぎが行われていた。以前、サーカスで働いていたときにも先輩に言われた事がある今はこの程度の賑わいだが数年前はすべての通路に座り込んでる人がいて通る事も出来なかったと少しずつではあるがその時から減少していたのかもしれない。イベント・店舗にはDJは欠かせない、予算があるイベントはダンサーやラッパーを呼ぶ。さらに余裕があるイベントにはグラフィティまで予算が回ってくるのだ。しかし、現在では多くのイベントも縮小し予算も減少。店舗も以前までのような賑わいは減った。当時はイベントでもお店でもグラフィティまでお金をかけるところが多かった。その後、ブームは去り店舗も飾る店内ではなく倉庫のようなコンクリート・配管等がむき出しのまま造りが受けた。次第にイベント・店舗からグラフィティが消えていった。 |
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| 有限会社を設立する |
| ブームが去ると共に1年間の休暇をとることにした。別に期限(休暇)を決めていたわけではない。ただグラフィティを仕事として行っていく為に以前、自分の気持ちに負けないようにとタトゥーを入れていた。その事もありやはりしばらくするとまたグラフィティを始めたくなってきていた。と言う事と同時期に母親が有限会社を設立するという事も重なった。部門わけをしてもらい設立時にパソコンを導入しデザインを再開する事にした。 もちろんパソコンなんて良くわからない誰かに教わったというわけでも無いソフトを入れいじりながら独学で覚えた。有限会社を設立してからはグラフィティの名刺・ポスターなどを作成したりしていた。その流れでグラフィティ以外のデザインも少しずつではあるがするようになった。以前にモデルも行っていた事もあり事務所の社長の紹介で他のアーティストのロゴマークなどもデザインするようにもなった。しかし、米国に在住する(英語を話す環境)という夢は捨て切れなかった。 |
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| 労働ビザを取得する |
| 以前から海外での生活に憧れを抱いていた私だったがたまたまその日立ち寄った一軒の本屋で立ち読みした事で今後の生活を大きく左右する事になるとはその時には考えもしなかった。そのとき手にした一冊の少し厚手の雑誌(タイトルとは“海外で働く”)に出会い内容を読んでみると海外での職の募集要項だった。当然、日本人が海外で働くにはビザが必要になる。そして比較的簡単にビザを取得できる(海外で働くことが出来る)のは大きく3種類しかない。(日本からの出向は除く)その3種類とはパソコン関係・旅行業・料理関係。しかし、パソコンは難しすぎて論外、旅行業は季節労働者として1年を通して生活の安定が望めない、そして料理関係の取得ビザが残された。以前から海外生活には憧れを抱いていた為、日本料理は5年ほど行っていた。この経歴で海外での労働ビザを取得しようと考えたのだ。憧れのロサンゼルスもあったが紹介人がいないと受付不可との事、その他、カナダ・ニュージーランドなどその他の国も同様に募集はあったがどうしても英語圏に拘った。早々に帰宅し国際電話をしこちらの希望を伝えビザ取得や保障など質問をした。ニュージーランドはすぐに労働ビザは取得できないとの回答、収入もかなり少なかった。一方のカナダは労働ビザ取得可能で収入もある程度生活できる年俸を提示してくれた。その電話を期にすべてが動き出した。気持ちはカナダに行ってしまったのだ。その時、対して考えもせず先方にビザ発行依頼をお願いしていた。結婚を控えていた私だったがすべてを捨てカナダ行きを決行。労働ビザ取得までに約3ヶ月ほどあった。その間はアルバイトをし時期を待ち少しでも手持ち金を増やした。名目としてはカナダ人に日本料理を指導するということでビザを発行する為に多少の英語が必要だった。そこでカナダ大使館から英語での面接を受ける事になってしまった、よくわからないまま面接が終了し無事ビザが発行された。今考えると当時良くあの程度でビザが発行されたと思えるぐらいの英語力だった。 |
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| カナダに在住し始めて |
| 当時は帰国は考えもしていなかった為、家財道具やデザインの作品等すべてを捨てた。それまでに数カ国旅行は行ってはいたが生活となるとまったく違った。それに一番の壁は言葉。勘違いされている方も多いかと思うが「英語が話したいなら海外に住むのが早道だよ」と住んだこともない人が自信満々に言っているのを今でもたまに見かけるが海外に住んだからといって話せるようになるわけではない。実際5年・10年住んでいてもまったく話せない人はかなり多い。これは渡米したその日に知ることになった。お店にいた日本人のほとんどが英語を話せないのだ。思い描いていた英語を話す環境が崩れていった。私のビザを取得してくれたコンサルタントが通訳もかけていたのだ。彼は中国人だが幼少のとき日本に住んでいた事から中国語・日本語・英語と3ヶ国語を操り話していた。当然、他のスタッフは英語を話す、しかし香港人が多かった為、英語のアクセントもきつく聞き取りにくい。英語を覚えるには難しい環境に就職してしまったとその時は思った。しかし、とても綺麗な英語を話す台湾人がいた。その時、私は心に誓った、出来る限り他の日本人スタッフとは話さずこの台湾人と接する時間を多くとる事。その他、家をシェアしていた友人も日系のカナダ人だったことも良かった。彼が帰宅するのを待って毎日少しでも会話するように心がけた。これで1日の大半を綺麗な英語を話す環境を自ら作り出す事に成功した。ある日、面白い事に気が付いた同じ中国人なのに中国語と広東語では通じない為、中国人同士が英語で話しているという事に・・・。読み書きは一部を除きほとんど一緒だが会話はまったく違うという事だった。 |
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| 友人がなかなか出来ない |
| 当時、疑問に思ったことがあるこんなにカナダ人が多いのに友達になることがとても困難いう事に・・・。渡米当時は車が無くバスで通っていた為、いつもの同じ時間、同じバス何時にバスが来るのかは知っていたがあえて話すきっかけとしてバスが来る時刻を聞き話すきっかけにしたり、しかしこれもバスを降りてしまえばもう会うことは出来ない。数分の会話をするだけだった。当然、いつものフレーズを繰り返すだけだったのでなかなか会話を楽しんだというところまでは行かない。しかし、カルガリーに住んでいた為、町はそんなに大きくなくしばらくするとほとんど行きつくしてしまった。しかし、この時は他の友人を作ることは出来なかった。色々探しているうちに安く見ることの出来る映画館を見つけた。カナダでも12ドル(約1,000円)ぐらいはするがそこの映画館は3ドル(約240円)ほどで楽しむことが出来た。なぜかというとそこでは2〜3ヶ月遅れた映画を上映しているからだ。とは言っても日本ではまだ上映されてないし、日本には来ない映画が多数あった。人気の無い映画は1週間で終わってしまう作品もある。その時、始めて知った日本で上映される映画はほんのわずかだという事に・・・。とにかく上映している映画が数が多いそこで私は仕事を終えてから毎日1本映画を見に行くようになった。そして休みの日のなると5本近く見るときもあった。朝一番で行きその週にやっている映画をすべて見るのだ。そして見れなかったものは仕事後に見に行く。しかも火曜日は映画の日ですべての映画が半額1.5ドル(約120円)で楽しめてしまう。こうなるとレンタルビデオ4ドル(約320円)を借りるより安い。そんな日が数日続いたがそんなある日、500ドル(約4万円)で車を売ってもらえることになった。走行距離36万キロ日本では考えられない。車検が無いため、今でも現役で走る事が出来るのだ。しかし、いつ止まってしまうか心配でならない車の事を知らなかった私だったが少しずつ覚えていった。なぜかというとカナダで車を修理に出すと出した箇所は直るが他の箇所が壊れて帰ってきてしまうということがほとんどだった為だ・・・。これでは怖くて修理に出す事は出来ない。しょうがなく皆、自ら覚えるようになるのだ。 |
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| 友人を作る為にとった手段とは |
| 未だにカナダに来てからの友人といえばシェアハウスの日系カナダ人とその彼女、同僚の台湾人の3人だけだった。この3人と話している時間はとても幸せに感じた。数ヶ月するとかなり英語も話せるようになり憧れていた英語での生活を送る事が出来た。しかし、この3人以外に英語を話す友人に出会い事が出来ずにいた。クラブへ行ってみたがダンサーはいなくあまりぱっとしない。そんな時、たまたま知り合った日本人からレイブパーティーの存在を聞いた。すぐにチケットを購入しイベント会場にカナダでは様々なところで行われている。スケートリンクに板を敷き会場にしたり空き倉庫を会場にしたり公民館のようなところを会場にしたりと色々だ。足を組み入れた瞬間まさにこれぞ探していた空間。初めて行ったイベントが感動に匹敵する位良かった。壁に蛍光色で描かれた作品、琴とDJのセッション、VJ、そしてお客さんも様々な物を持って踊っている。しかもブレイクダンスを踊っている人を見つけた。音楽はトランスミュージックだったがその音楽にあわせブレイクを踊る。皆、話しかけても凄く優しく接してくれる。以前、横浜サーカスで味わったときの安堵感をここでも感じることができた。そして、私がカナダ人の友人を作る為にとった行動とはまたブレイクダンスを踊る事だった。5、6年は踊っていなかったと思う。しかし、そんな事は言ってられないカナダ人の友人を作るチャンスだ。我を忘れ踊った、ふと気付くと私の周りに人だかりが出来ている事に気付いた。その後、ライトが私に当てられた一瞬何が起こったのか理解できなかったがなんと現地のケーブルテレビが私の踊っている姿を撮っていたのだ。私が踊った後は話しかけてくれる人が多くそしてその日を境に友人をカナダの友人を作る事に成功したのだった。それからは週末は彼らと共に過ごし時にはイベントに出かける。辞めていたダンスを再開する事でとても素敵な友人と出会えることが出来た。 |
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| 海外で得たものとは |
| 家庭の事情により帰国する事になった。これまでのカナダでの生活でまったくといっていいほどの文化の違い、考え方の違い色々学んだ。強く印象付けられたことはカナダ人の多くは見返りを求めず親切にしてくれるということだ。日本人は親切にすると何か裏があると思われてしまう。そんな荒んだ気持ちがまったく無く優しく接してくれた。私が始めてのカナダの冬と知れば物をそんなにもって来てないだろうからと冬期間はダウン・手袋・マフラーを貸してくれる。時にはいろいろな物をくれる。だからといって見返りを一切求めない。このような優しさが当たり前で与える方も受ける方も素直に受け入れている。このような素敵な気持ちを自ら体験しそして、私もしてもらったような事を他の困っている人に手助けをしたいと思うようになった。何かをしてもらったらその人に返すのではなくより困っている人、必要としている人に恩返しをしていけばもっとみんなが素敵な気持ちになれるとこのカナダでの生活そして触れ合った友人から学んだ。帰国し日本のイヤらしい荒んだ気持ちに惑わされること無く少しでも純粋な気持ちを保ち与えていける人になれればと思う。こうして私の1年半というカナダ生活は幕を閉じた。 |
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